春の光めぐって2023年03月05日 16:19

 朝晩はまだ空気の冷たさを感じるけれど、気がつけば日もだいぶ長くなり、日ごとに日差しの力強さを感じる。季節は巡り巡って、もう春がすぐそこまでやって来ているのだろうなと感じる今日この頃。でも、昨年とも一昨年とも違う新しい今日という一日。葉の落ちた老木から芽を出す真新しい花びらやプランターの中の風にゆれる赤や黄や紫色のパンジーのように。

 最近、以前から好きだった1960年代の映画「華麗なる賭け」の挿入歌「風のささやき」のフランス語訳の歌詞をじっくりと読む機会があった。(曲はフランス人のミシェル・ルグランの作曲だが、歌詞は英語詞がオリジナルで、後日フランス語に意訳されたものがルグラン自身やフランス人歌手によって歌われている)
 「私の心の風車」というのが曲名だが、歌の中では風車が回るイメージから数多くの「輪・環」が表現される。小川の中に石が投げられた時に広がる波紋、夜の星空を舞台にした壮大な回転木馬、土星の輪、カーニバルの風船、ヒマワリの花、人生の中の時の巡り、季節の移ろい。

 好きなことや目標とすることにたゆまず努力して取り組み続けることは素晴らしいことだと思う。だけど、何度中断しても、また始めたいときに再び始めればそれもまたいい。今はそんな風に思う。自分の中の目に見えない環が一周(何周か?)して回ってきたみたいな感じかな(笑)どこかで見たような景色だけど、何かが違う。学生時代にも聞いたことがある歌だけど、何かが違う。以前には見えなかったもの、聞こえなかったもの、感じられなかったものが、私自身のより深いところに語りかけてくる。

いつもの時間の貴さ2022年01月14日 20:47

 旅行、コンサート、友達との会食、美術館、博物館などで過ごす時間は、日常から離れた特別な時間だ。
 しかし、最近はそれらのイベントとイベントの間のいわゆる普通の時間の中にも貴重な時間があると感じることが以前よりも多くなった。年を重ねたせいだろうか。そうならば年をとるのも悪いことばかりではない。

 たとえば、冬の晴れた日に外を歩いているとき、腕時計やスマホや足下を見るのではなく、いつもより少し視線を上げると、澄んだやわらかな青いキャンバスに筆でサッとなでたような薄い白い雲が浮かんでいる天空に出会える。そんな時、なぜか少し幸せな気持ちになる。

 公園の池にいる白鳥がスーッと水の上を滑るように近づいてきて、真綿のような純白のふわふわの羽をパタパタと広げながら方向を変えて泳いでいく様を愛おしく感じながら見つめる。

 晩秋、散りたての落ち葉が広がる道を歩くのは楽しい。落ち葉の形やその色鮮やかなグラデーションは二つとして同じものはない。一枚の葉の中に、舞妓さんの紅のような朱から、夕暮れ時の西の空の茜色、そして、たわわに実った稲穂のような黄金色まである。虫に喰われたギザギザの小さな穴も個性的なチャーミングポイントだ。葉を落とす落葉樹は、さながら色彩豊かな美しい絵を生み出す立派な画家だ。

蝉の声を聞きながら2021年08月21日 19:24

 明るい若草色の葉をつけた新緑の木立が、澄んだ水色の空を背景にそよ風に揺れているのを眩しく見上げていたのはいつのことだったか。ついこの前のことのようにも思えるのに、いつの間にか蝉の声も少し弱々しくなり、西の空が茜色の夕暮れのとばりに包まれる時も少しずつ早まってきている。一方、以前には想像できなかった南国のスコールのような瞬時の激しい雨と湿気をともなった真昼の厳しい暑さもまだまだ続いている。
 しかし、目に見えない時計の針は、足を速めることもなく、立ち止まることもなく、生きとし生けるものの上に等しくいつもと同じ歩みを進めている。明日の遠足の日が早く来てほしいと待ち望む子供の上にも。今日という日が永遠につづいてほしいと思っている幸せな恋人たちの上にも。辛く苦しい時間が早く過ぎ去ってほしいと願っている人の上にも。そして、無人の北極の氷河や灼熱の砂漠の大地の上のゆらめく陽炎の上にも。

 お気に入りの作家の短篇集を何十年ぶりに読み返している。ストーリーをはっきり記憶している作品はあまりなく、伏線が多くしかれた絶妙な話の流れにぐいぐい引き寄せられ、どんどん先を急いでしまいたくなる。しかし、そんな時、活字の並んだ紙の上から一度目を上げ、心の目で読み返してみる。すると、どうだろう。ストーリーの展開だけを追っていたときには見えなかったものが見えてくる。セリフにはない登場人物の内面が見えてくる。部屋の中の情景が見えてくる。季節感のある窓の外の景色が見えてくる。作り立ての熱々の料理の香りが立ちのぼってくる。海岸に打ちつける波の音が聞こえてくる。夜の降り積もった雪の上に、さらにさんさんと降り続くかすかな雪の気配を感じる。
 そして、再び開いたままのページの上に視線を落とすと、一文一文が豊かな表情をもって語りかけてくる。先を急がずに、言葉の美しさやイマジネーションをじっくりと味わってみる。しばし、時計の針を忘れて、その文章が生み出す無限の世界へ旅に出てみる。

秋の音2020年11月02日 11:26

 年を重ねるにつれ、季節の移り変わりに新鮮な発見と喜びを感じるようになった。それは、誰もが嫌でも見聞きする破壊的な強風が吹き荒れる嵐のようなフォルテシモではなく、黄色く色づいた一枚の葉が梢から離れてはらりと空中を舞っていくようなピアニシモの時もある。
 秋晴れの澄み渡った青い空に赤く染まった紅葉や大きな落葉樹の樹々の黄葉した葉がそよ風にやさしく揺れている様子を見ているのはなんとも心地よい。

 子供の頃、ピアノを習っていた。親の意向で習わされていたわけではなく、私自身ピアノを弾くのが好きだった。でも、振り返って今思うと、あの頃の(強弱記号の)p(ピアノ)はただ「小さく」で、f(フォルテ)は「強く、大きく」だけだった。

 最近、また時おり鍵盤に触れる機会があると、一音一音がこんなにも色々な表情をもっていたのかと驚かされている。
 p(ピアノ)には、優しさもあるけれど悲しみや切なさもあり、子供たちの楽しい内緒話もあり、恋人たちの甘いささやきもあり、老人が静かに幸せな昔の日々を回想する時間もあるかもしれない。
 f(フォルテ)は、激情にかられた暗い怒りや情念を表すこともできるし、逆に全身がはじけてしまいそうなほどの喜びと満面の笑顔、勇気や希望を伝えることもできる。

 耳をすませば、今日はどんな秋の音色が聞こえてくるだろうか。

金刀比羅宮2019年07月06日 16:34

 江戸時代には「一生に一度は金刀比羅宮(金毘羅宮)参り」と言われていたぐらい庶民の信仰を集めていた金刀比羅宮は、香川県の琴平町にある。そこは、1時間に2~3本の琴電とJR土讃線の終着駅であり、参拝客の途絶える夕方には通りを歩く人の姿もすっかり少なくなる静かな町である。

 

 御本宮が標高521mの象頭山の中腹にあるため、そこへ登るための階段の長さでも有名である。専用の駕籠(有料)に乗って登り下りすることもできる。登り始めは階段の両側に讃岐名物のうどんや一刀彫などを並べた土産物屋が立ち並び、大門や社がある所など要所要所に何段目まで登ってきたのかわかるような標識が立てられている。

 

 5月の午前中とはいえ晴天に恵まれたこともあり、登るにつれ全身から汗が噴き出てくる。参道の入口から御本宮までは785段。その奥の更に細い山道を登ること583段(入口から1368段)、かつては修験道の場でもあったという奥宮の厳魂神社に到着する。

  

 

 ここ数十年の通信網の発達や高層住宅の増加や街の景観の変化には目を見張るものがあり、便利になったことはありがたく感じているが、自分の2本の脚だけを頼りに、時間を気にすることなく山道をゆっくり歩いていると、数百年前からそれ程大きく変わっていないだろう空間の中に身をおくことの気持ちよさを感じた。

 特に御本宮から奥社へとつづく道は路面が歩きやすいように整備されているものの、周囲は山肌に自生する大木が繁っている細い道で、光を遮る木陰と爽やかな風が心地よかった。

  

 

※写真1 手前の金色のプレートに、「あと少し、御本宮まで133段!登って幸せ。福が来る!」と書かれている。

写真2 御本宮(南側面から)

写真3 南渡殿(長さ約40mの檜皮葺の屋根をもつ木造の渡り廊下が美しい)

写真4 厳魂神社