蝉の声を聞きながら2021年08月21日 19:24

 明るい若草色の葉をつけた新緑の木立が、澄んだ水色の空を背景にそよ風に揺れているのを眩しく見上げていたのはいつのことだったか。ついこの前のことのようにも思えるのに、いつの間にか蝉の声も少し弱々しくなり、西の空が茜色の夕暮れのとばりに包まれる時も少しずつ早まってきている。一方、以前には想像できなかった南国のスコールのような瞬時の激しい雨と湿気をともなった真昼の厳しい暑さもまだまだ続いている。
 しかし、目に見えない時計の針は、足を速めることもなく、立ち止まることもなく、生きとし生けるものの上に等しくいつもと同じ歩みを進めている。明日の遠足の日が早く来てほしいと待ち望む子供の上にも。今日という日が永遠につづいてほしいと思っている幸せな恋人たちの上にも。辛く苦しい時間が早く過ぎ去ってほしいと願っている人の上にも。そして、無人の北極の氷河や灼熱の砂漠の大地の上のゆらめく陽炎の上にも。

 お気に入りの作家の短篇集を何十年ぶりに読み返している。ストーリーをはっきり記憶している作品はあまりなく、伏線が多くしかれた絶妙な話の流れにぐいぐい引き寄せられ、どんどん先を急いでしまいたくなる。しかし、そんな時、活字の並んだ紙の上から一度目を上げ、心の目で読み返してみる。すると、どうだろう。ストーリーの展開だけを追っていたときには見えなかったものが見えてくる。セリフにはない登場人物の内面が見えてくる。部屋の中の情景が見えてくる。季節感のある窓の外の景色が見えてくる。作り立ての熱々の料理の香りが立ちのぼってくる。海岸に打ちつける波の音が聞こえてくる。夜の降り積もった雪の上に、さらにさんさんと降り続くかすかな雪の気配を感じる。
 そして、再び開いたままのページの上に視線を落とすと、一文一文が豊かな表情をもって語りかけてくる。先を急がずに、言葉の美しさやイマジネーションをじっくりと味わってみる。しばし、時計の針を忘れて、その文章が生み出す無限の世界へ旅に出てみる。

ムーミン谷の十一月2020年11月28日 19:40

 昨今、ムーミン展やムーミン関連グッズを販売するイベント等をよく見かける。ムーミンと言えば、以前は子供の頃にテレビで見たアニメの印象から可愛らしいキャラクターと楽しいお話というイメージを持っていた。しかし、社会人になってから原作のトーベ・ヤンソンの小説を読んでみると、その印象ががらりと変わった。やさしい表現の中にもそこかしこに含蓄のある彼女の人生観が散りばめられていて、あたかも哲学書のような感じさえうけた。
 中でも「ムーミン谷の十一月」は、ムーミン一家が最後まで登場せずに、いつもの脇役たちが主役となるちょっと不思議な物語で、歳を重ねてから読むにつれより魅力を増している一巻である。

 人は何か嬉しいことがあったときや悲しいことがあったときや退屈なとき、誰かに話しかけたくなるものである。あるいは、取るに足らないような日々の些細な出来事でも誰かと共有したくなる瞬間がある。逆に、あれこれ世話をやかれたり、ルールの中にはめ込まれたりするのを煩わしく感じて一人になりたいと思ったりすることもある。

 この小説の主人公たちも同じである。彼らはムーミン一家に会いたくて、話を聞いてもらいたくて、一緒にコーヒーを飲みながらゆったりした時間を過ごしたくてムーミン谷のムーミン一家の家にやって来るのである。しかし、一家は不在で、スナフキン、ホムサ、フィリフヨンカ、ヘムレンさん、ミムラねえさん、スクルッタおじさんらの予期しない共同生活が始まるのである。
 季節は、陽が日に日に短くなり、日差しが弱くなり、霧が濃くなって、雨がしとしと降る秋である。
 彼らは性格も生活様式もまったく異なっている。しかし、各人の心の中にはムーミン一家に対する何かほっこりした温かな共通のイメージをもっている。そんな彼らの共同生活の日々が淡々と描かれる。そこにはムーミン一家は登場しないけれど、自然に溶け込んだ彼らのゆったりした生活様式やムーミンママのおおらかで包み込むような優しさやムーミン一家が放つ日常の中の幸せ感が常にただよっている。
 そして、本格的な厳しい冬を迎える前に、ある者は我が家への帰路につき、ある者は旅立ち、また別のある者はムーミン一家の帰りを待ってそこにとどまることを決意するのである。誰もがそこに来る前よりも少し成長して、心穏やかに、晴れやかな気持ちになって。

秋のソナタ ラモン・デル・バリェ=インクラン2019年11月09日 23:53

 秋の冷たい雨が、死期の近いかつての想い人のもとに急ぎ向かう馬上のブラドミン侯爵の上に静かに降りつづく。それは、夜になれば月の光と燭台の灯りだけが辺りを照らしてくれ、領主と小作人がいた時代のスペイン北西部のガリシア地方の古い石造りの城館での話である。
 日本には「天高く馬肥える秋」という表現があるが、私のヨーロッパの秋のイメージというのは、晴天というよりも曇天で時おり静かな雨が色づいたツタの葉を濡らし、石畳や石造りの建物を濃い灰色に染め上げていくような感じである。
 この物語はそのようなヨーロッパの秋の季節感と、ヨーロッパの田舎の重厚な石造りの城館のエキゾチックな異空間の魅力を連想させるような城館内の造りや庭園、調度品、衣装をさりげなく表した文章が主題をより美しく印象的なものとさせている。今や二人の娘の母親となったが夫や子供たちとは別居中で病にふせっている城館の女主は、自分の死期を悟って幼少の頃から心をよせていた遠戚のブラドミン侯爵に文を書いた。かつては恋多き若者であったブラドミン侯爵も今や髪は白く年老いていた。再会した二人の濃密な時間が描かれる。つかの間の幸せな時間を過ごす二人だが、蒼白くやせ衰えた彼女の横にはすでに死神がよりそっている。異色の恋愛小説である。
 人の一生を春夏秋冬に例えることはよくあることだと思うが、この作品は4部作のうちの1作品で、他に「春のソナタ」、「夏のソナタ」、「冬のソナタ」があり、ブラドミン侯爵の若かりし日からの生涯がつづられている。作者のラモン・デル・バリェ=インクラン(1866~1936)は日本では必ずしも有名な作家とは言えないが、秋になるとふと読みたくなる秀作である。

風のかたみ 福永武彦2019年05月12日 15:35

 時は今から約千年をさかのぼった京の都大路、月もないしんと静まりかえって人通りの絶えた夜更けの通りにどこからともなく美しい笛の調べが流れている。それは荒涼とした芒の原で道に迷い、怪しげな陰陽師と旅の途中の京の笛師と遭遇した後、京の親戚筋の中納言家にきてからまもない信濃の国の武家の次男である次郎信親の奏でる笛の音である。次郎は、亡き叔母の娘でもある中納言家の末娘である萩姫に心をよせ、萩姫は一度しか逢ったことのない左大臣家の若君のことを想い、快活な笛師の娘楓は次郎を愛している。そんな折、都では正体不明の不動丸と称する盗賊集団が窃盗を繰り返していた。次郎を中心に綾なす恋の行方に、得体の知れない陰陽師と不動丸が暗い影を落としている。

 王朝時代の暮らしや衣装、調度品なども美しく描かれているこの小説は、福永武彦氏(1918~1979)の著作である。福永氏の作品の中では時代小説というのは珍しく、知名度の高い作品というわけではないかもしれないが、ふと読み返してみたくなり、数十年ぶりにじっくりと作品を味わった。心理描写やストーリー展開の面白さはもとより、王朝時代の雅な世界が美しく再現されていて、お気に入りの作品の一つである。

マルーラの村の物語 ラフィック・シャミ2019年05月05日 10:25

 シリア人で、1971年に旧西ドイツに亡命してドイツ語で小説を出版している作家がいる。彼の名前はラフィック・シャミ(Rafik Schami : 1946~)で、彼の小説は日本語にも訳され出版されている。彼はダマスカスの旧市街の生まれだが、イスラム教徒の多いシリアでは少数派のキリスト教徒の家に生まれた。

シリアには古くからキリスト教徒が住みつき自然の要塞を利用して迫害をのがれたとも言われているキリスト教徒たちが今も暮らすマルーラという村がある。マルーラとは、古代アラム語で「入口」という意味で、細い道を右に左にカーブしながら登って行った標高1500mぐらいの岩山の上にある人口1万人弱の村だ。厳しい自然環境で周囲と隔絶されてきたせいか、その村ではイエス・キリストの時代に話されていたアラム語が今も使われている。

  

私も世界最古の教会の一つといわれるその村の聖サルキス教会(ローマ軍の兵士で殉教したシリア人のサルキスとバッコスを祀るため4世紀初頭に建造された)を訪れたとき、アラム語の礼拝を聴いた。もちろん意味などは解らないが、流れるようなやわらかな響きをもった言葉で、キリストの時代の言葉を耳にしているのかと思うと不思議な気がした。崖っぷちに建つ石造りの教会の内部は薄暗く真夏でもひんやりとしていた。祭壇の上のドーム状の天蓋は青く彩色され、黄金の星が散りばめられた中に、左右の手を胸元で交差させ地上を見守る聖母マリアの姿が描かれている。

  

  

  

教会を出て周囲に目をやると、切り立つ岩山に張り付くように家々が建っている。さらによく見ると、樹々も生えていないむき出しの岩山のあちこちに黒い穴がのぞいている。キリスト教徒が迫害を受けていた時代の住居跡だそうだ。

シャミの「マルーラの村の物語」を読むと、村の情景や登場人物がなんと生き生きとよみがえってくることだろう。そして、彼の全作品に共通していえることだが、物語の原点でもある「語る」ことをとても重要視している。それは、時におじいちゃんが孫にやさしく語って聞かせるような寓話や楽しい話だったり、世界中を放浪して歩いている男の荒唐無稽な話だったり、今は巨大なかぼちゃのようにはち切れんばかりに太った口うるさい肝っ玉母さんの若い頃の夢見るような恋愛話かもしれない。

そこには語られている話の世界とそれを語っている人物の世界と二重の物語が混在している。そして、物語の中には時にはまた別の物語があり、それはいくつもの入れ子になって、深い深い井戸を覗き込んでもその底を見ることはできないように物語の終わりは誰も知ることができない。なぜなら、物語は一人一人の読者がそれを読み始めた時からそれぞれの一つ一つの物語が始まるからだ。その行方を知っている人がどこにいよう。

彼の物語は単なる面白おかしいだけの絵空事ではなく、彼自身が亡命せざるを得なかったような時代背景と現実の厳しさが程よいスパイスとなってきいている。

そして、彼の本を読み終わった後には、日だまりでぬくもりに包まれているような心地よさを感じることができる。それはシャミが、人間社会が生み出したいくつもの不幸な事件に遭遇してきたにもかかわらず、それでもなお諦めずに人と人との信頼関係や愛情に大きな希望と期待をよせ物語に温かい息吹を吹き込んでいるからかもしれない。

 

※他にも「夜と朝のあいだの旅」、「夜の語り部」、「愛の裏側は闇」等多数の翻訳作品があります。