マルーラの村の物語 ラフィック・シャミ ― 2019年05月05日 10:25
シリア人で、1971年に旧西ドイツに亡命してドイツ語で小説を出版している作家がいる。彼の名前はラフィック・シャミ(Rafik Schami : 1946~)で、彼の小説は日本語にも訳され出版されている。彼はダマスカスの旧市街の生まれだが、イスラム教徒の多いシリアでは少数派のキリスト教徒の家に生まれた。
シリアには古くからキリスト教徒が住みつき自然の要塞を利用して迫害をのがれたとも言われているキリスト教徒たちが今も暮らすマルーラという村がある。マルーラとは、古代アラム語で「入口」という意味で、細い道を右に左にカーブしながら登って行った標高1500mぐらいの岩山の上にある人口1万人弱の村だ。厳しい自然環境で周囲と隔絶されてきたせいか、その村ではイエス・キリストの時代に話されていたアラム語が今も使われている。

私も世界最古の教会の一つといわれるその村の聖サルキス教会(ローマ軍の兵士で殉教したシリア人のサルキスとバッコスを祀るため4世紀初頭に建造された)を訪れたとき、アラム語の礼拝を聴いた。もちろん意味などは解らないが、流れるようなやわらかな響きをもった言葉で、キリストの時代の言葉を耳にしているのかと思うと不思議な気がした。崖っぷちに建つ石造りの教会の内部は薄暗く真夏でもひんやりとしていた。祭壇の上のドーム状の天蓋は青く彩色され、黄金の星が散りばめられた中に、左右の手を胸元で交差させ地上を見守る聖母マリアの姿が描かれている。

教会を出て周囲に目をやると、切り立つ岩山に張り付くように家々が建っている。さらによく見ると、樹々も生えていないむき出しの岩山のあちこちに黒い穴がのぞいている。キリスト教徒が迫害を受けていた時代の住居跡だそうだ。
シャミの「マルーラの村の物語」を読むと、村の情景や登場人物がなんと生き生きとよみがえってくることだろう。そして、彼の全作品に共通していえることだが、物語の原点でもある「語る」ことをとても重要視している。それは、時におじいちゃんが孫にやさしく語って聞かせるような寓話や楽しい話だったり、世界中を放浪して歩いている男の荒唐無稽な話だったり、今は巨大なかぼちゃのようにはち切れんばかりに太った口うるさい肝っ玉母さんの若い頃の夢見るような恋愛話かもしれない。
そこには語られている話の世界とそれを語っている人物の世界と二重の物語が混在している。そして、物語の中には時にはまた別の物語があり、それはいくつもの入れ子になって、深い深い井戸を覗き込んでもその底を見ることはできないように物語の終わりは誰も知ることができない。なぜなら、物語は一人一人の読者がそれを読み始めた時からそれぞれの一つ一つの物語が始まるからだ。その行方を知っている人がどこにいよう。
彼の物語は単なる面白おかしいだけの絵空事ではなく、彼自身が亡命せざるを得なかったような時代背景と現実の厳しさが程よいスパイスとなってきいている。
そして、彼の本を読み終わった後には、日だまりでぬくもりに包まれているような心地よさを感じることができる。それはシャミが、人間社会が生み出したいくつもの不幸な事件に遭遇してきたにもかかわらず、それでもなお諦めずに人と人との信頼関係や愛情に大きな希望と期待をよせ物語に温かい息吹を吹き込んでいるからかもしれない。
※他にも「夜と朝のあいだの旅」、「夜の語り部」、「愛の裏側は闇」等多数の翻訳作品があります。
風のかたみ 福永武彦 ― 2019年05月12日 15:35
王朝時代の暮らしや衣装、調度品なども美しく描かれているこの小説は、福永武彦氏(1918~1979)の著作である。福永氏の作品の中では時代小説というのは珍しく、知名度の高い作品というわけではないかもしれないが、ふと読み返してみたくなり、数十年ぶりにじっくりと作品を味わった。心理描写やストーリー展開の面白さはもとより、王朝時代の雅な世界が美しく再現されていて、お気に入りの作品の一つである。
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