アルゼンチンタンゴ2019年06月06日 23:34

 アルゼンチンといえばアルゼンチンタンゴの音楽とそのダンス。
 同じタンゴのダンスでも、燕尾服の男性とオーストリッチの飾りのついた華やかなドレスの女性が華麗に舞うヨーロッパのボールルームダンス(日本では「社交ダンス」と呼ばれることも多い)の中のタンゴとはかなり違う。何が違うかというと、わかりやすく言えばアルゼンチンタンゴは男女の密着度がより高く、脚の絡まり合うようなステップで、女性の衣装も深いスリットの入ったセクシーなものが多く妖艶な世界である。
 それというのもそもそもタンゴは1880年頃アルゼンチンのボカ地区という貧しい移民たちでひしめきあう港町の酒場で生まれたからである。最初は、男同士が荒々しく踊ったのが始まりで、やがて娼婦を相手に踊るようになり、アルゼンチンでは良家のお嬢様などは踊ることをはばかられる下級階層のダンスだった。
 それが1910年代にはいってフランスのパリの社交界で人気を博した(実際には、これはフランス風にアレンジされたタンゴなのだが)のを機に、アルゼンチンでもタンゴが市民権を得て、人々の間で普及していき、今ではアルゼンチンタンゴだけの世界規模のダンス競技会などもひらかれるようになった。
 日本でも「ラ・クンパルシータ」、「エル・チョクロ」、「カミニート」などのタンゴの古典といわれるような曲は有名である。題名を知らなくても、耳にすればどこかで聞いたことがあると思う人も多いだろう。
 そういうわけで、タンゴの音楽は初めダンス用の音楽として生まれたのだが、それを従来のタンゴ音楽とはまったく違う音楽のみとしても十分聴きごたえのある芸術の域に高めたのがアストル・ピアソラ(1921-1992)である。彼が作品を出し始めた当時は、「こんなのはタンゴではない!!」と異を唱える人も多かったそうだ。彼の出現は、「タンゴ革命」とも呼ばれている。
 私はもともとよくタンゴを聴いていたけれど、初めて彼のバンドネオン演奏による彼の作品をCDで聴いた時、まさに「革命」という言葉がピッタリくるように大きな衝撃を受けた。そこには今までのタンゴには必ずあった歯切れのよい一定のテンポがなく、音は時に静かにゆっくり流れ、また別のある時には現代曲のようにメロディーを口ずさむことのできない不協和音が鳴る。
 深夜の港近くの石畳の人気のない通りに捨てられた空き缶が、折からの風にカラカラと乾いた音をたて、ちぎれた紙屑が舞い上がる。そんなわびしい情景が浮かんでくる。長く余韻を引くようにゆっくりしたヴァイオリンのメロディーが深い夜のしじまに吸い込まれていくようだ。そして、また別のあるときは激しく速いテンポの不協和音が不安定な響きを作り上げる。
 彼の作曲した曲の中で何か1曲あげるとすれば、「リベルタンゴ」である。その曲名は、「リベルタ(自由)」と「タンゴ」という言葉を掛け合わせた造語である。
 フィギュアスケートやCMなどでもよく使われているポピュラーな曲だ。ピアソラ自身の演奏も勿論よいが、私はこの曲に関しては、チェリストのヨーヨー・マの演奏が好きである。リサイタルで聴いた彼の「リベルタンゴ」の熱く深く艶のある響きには心を揺さぶられた。

スラブ舞曲 ドヴォルザーク 12019年06月12日 22:13

 先日、かつての恩師が企画するクラシックのコンサートに足を運ぶ機会を得た。ピアノ曲を中心にヴァイオリン、フルート、チェロなども加わった室内楽曲も演奏された。姉妹や親子で出演されていらっしゃる方々もいて、とても温かな演奏会であった。あらためて音楽って素晴らしいな、楽しいな、生の楽器の音って本当に心地よいなと感じた。整体が物理的に体のゆがみなどを直すものだとしたら、音楽はさながら自律神経の整体のようなものかもしれないと思った。

今回のコンサートの中で特に心に残ったのは、それぞれ音大を卒業されたお母様とそのお嬢様によるドヴォルザークのスラブ舞曲のピアノ連弾である。もともとスラブ舞曲集は私の好きな作品でもあり、中でも演奏された第1集の作品72-2は哀愁をおびたメロディラインがとても美しい。お母様が低音部をお嬢様が高音部を演奏されていたが、息もピッタリで素敵な演奏だった。ピアノという1つの楽器だけで演奏されているとは思えないような様々な音色と音のボリューム感と流れるような美しい響きがあって心から魅了された。

スラブ舞曲集を作曲したのはチェコの後期ロマン派の作曲家アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(18411904)である。彼はプラハ近郊の北ボヘミアの村で生まれたが、16歳のときにプラハに来て学び、卒業後はビオラ奏者として活躍。21歳から11年間、チェコ仮劇場でビオラを弾いていたそうだ。その後、作曲家や指揮者としても活躍し、ニューヨークのナショナル音楽院長も務めた。「新世界より」と副題がつけられた交響曲第9番も有名である。1895年に故郷のプラハに戻り、音楽院の仕事に従事するとともに作曲家として活躍し、数々の素晴らしい作品を残した。その中には、スラブの民謡や舞曲を取り入れた名曲もあり、国民楽派と呼ばれたりすることもある。(つづく)

※写真1 フラチャニの丘にあるプラハ城の遠景

写真2 プラハ旧市街広場の中世の時代からある天文時計




スラブ舞曲 ドヴォルザーク 22019年06月15日 10:55

     

  

 

チェコへはビロード革命の数年後に訪れたが(当時はチェコスロバキア)、プラハは中世の面影をとどめたとても美しく歴史的な町である。小高い丘の上にあるプラハ城は9世紀に建設が始まり、ボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城であった所だ。ヴルタヴァ川にかかるカレル橋は1402年に完成したプラハで最も古い石造りの橋で、複数のアーチ型の石柱の上に橋があり、両側に聖人の石像が並ぶとても美しい橋だ。橋を渡った先にある旧市街広場やそこに面して建つ旧市庁舎や時計塔、ティーン教会、数百年も前から立ち並ぶ家々や細い路地やすり減った石畳などを見ていると、まるで中世の時代にタイムスリップしてしまったかのような不思議な気分になる。

 

  

    

プラハの中央駅から普通列車で乗り継ぎをしながらオーストリアのリンツへ列車の旅をしたが、車窓から見るボヘミアの大地は、旅人の目にはとても美しく映った。列車が走っても走ってもそのスピード感を感じさせないように延々とつづく緩やかな起伏の牧草地や豊かな自然。まだ薄暗いうちに宿泊先を出て、冬の早朝のプラハから列車に乗り、南の国境を目指した。列車は濃いグリーンの車体で2等車を表す数字の2の文字が白字で扉の横あたりに書かれている。内部は車両の片側が通路になっていて、4~6人が座れそうな向かい合わせのシートがあるコンパートメントになっている。

    

民宿のお母さんが朝食代わりにもたせてくれたサンドイッチを食べながら、車窓の風景に見入っていた。ボヘミアの大地に深く分け入って行くような感じがした。列車は空いていたが、時おり新しい乗客が乗って来ては、降りて行った。チェコ語はガイドブックで覚えた「こんにちは」「ありがとう」「さようなら」の3語しか解らなかったが、実際にその時耳にしたチェコの方の笑顔とチェコ語の柔らかい響きは今でも記憶に残っている。

  

  

国境を越える人は、チェコ側の最後の駅を出る前までに最前列の車両に乗るように指示された。周りを見まわすと5~6人ぐらいしか乗っていなかった。最後の駅で長かった車両が切り離され、私たちが乗った1両だけがゆっくりとしたスピードで動き出した。まもなく駅もホームもない木立だけが見える荒野に突然列車は止まった。パスポートコントロールの係官が乗ってきてチェックが終わった後、荷物をもって列車から降りるように指示された。その列車はチェコ側に戻っていくのだ。列車の車体はかなり高いので扉口に2~3段のステップが付いているとはいえ、大きな荷物をもって地面に降り立つのはけっこう大変だった。どちらに行けばよいのかキョロキョロしていると、数十メートル先にオーストリア側の列車が止まっていて、一緒に降りた乗客がそちらに向かって歩き始めていた。私も大きな荷物を必死に両手でかかえて、小石まじりの線路上を慌てて後を追った。車内でオーストリア入国手続きを終え、リンツ経由で目的地のザルツブルグに到着したのは冬の早い日が傾き始める夕方であった。早朝から1日かけた列車の旅は、今やとても懐かしく貴重な思い出である。(この旅行は20年以上前のことであり、国境の越え方や列車なども今は変わっているのではないかと思います) (終わり)

写真3 旧市街広場に面しているティーン教会

 写真4 プラハからの列車の車窓風景

 写真5 乗車したチェコスロバキアの列車

 写真6 チェコ南部の国境の駅ホルニー・ドヴォルジシチェ